座る人間

 私は「良い子」が好きだ。

 良い子とは、よく考える子だ。自分自身について、将来について、過去について、置かれている立場について、世の中について、役割について。考えているってことは、じっくり観察できているってことだ。それはもう、沢山のことを、自分自身で。

 世の中で言うところの「悪い子」が、私は好きだ。

 悪い子とは、よく考える子だ。

 私の中では、良い子も悪い子も、よく考える子なんだ。だから素晴らしい。私が神様なら、座り心地の良い椅子を用意して、良い子や悪い子が、そこに座って考えている姿を見ていたい。

 考えてほしいと思う。沢山のことを、自分の心で。「自分の心で」というのはなかなか難しいことだ。世の中に生まれた私たちには、その影響を常に受けている。だから自分の考えというものが持ちにくいし、人の意見を聴いて、それを鵜呑みにして生きるのは、心地が良いことでもある。

 それが全てにならないように、自分の考えを作り上げていくのが人生だと、私は思う。何かに触れて、誰かと関わって、自分の心に芽生えた気持ちを、何よりも大切にして生きてほしい。「正しく認識する」というのは到底誰にも出来ないことだと思っている。だから、正しく、なんて思わなくていい。ありのままで、受け止めたり、反芻したりすることが…大事だと思う。

 

 愛とはなんだろう。「私がここにいることなのか?」と考える。正しい選択なんて、未来から見下ろさなければわからないものだ。

 愛を考える時「私はどこにいればいい?」という疑問が湧く。そして「したいことをすればいい」なんて思うこともあれば、それを貫き通すのが愛という訳じゃなかったりもする。この曖昧な文章は、敢えて書いた。それこそが愛なのだから。要するに愛とは曖昧なもので、正解も何もない。

 私の愛。仮にこの愛が成熟しなくとも、未来では次に抱いた愛で成熟するとも考えられる。未熟な愛しか持てない情けない現実。それはふと私自身を顧みた時に抱く感情でもある。

 要するに、わからない。何もわからない、としなかったのは、愛する気持ちだけはわかっているからだ。愛する気持ちだけある。それは例えるなら、ハンドルが付いてない車のようなものだ。あの人の笑顔を見ると、ガソリンが注がれる。しかしハンドルが付いてないから、ただ進むだけだ。行き先は誰にもわからない。ハンドルをつけなきゃならない。それは未熟な私だから…と理由をつけたくはないが、今のところ…私の人生にも言える。なんと未熟なことか。

 愛している。ただそれだけだ。

 正解は誰にもわからない。